連載小説「いしのわた」6話

結婚

 

茂夫は昭和四十一年に親方の紹介で武田さゑ子と結婚した。群馬生まれの女性だった。二人の子どもを授かった。妹の仕送りが終わっても貯金だけは続けていたので東京郊外の埼玉県三郷市に二十坪の建売住宅を買うことができた。福島を十六歳出て来て嫁をもらい小さな家を建てて子ども二人を育てることができた。こんなに上手くいった生活が一変した。さゑ子が乳がんをこじらせて亡くなったのだ。

茂夫は悲しんでは居られなかった。小さな子どもを育て家のローンも返さなければならなかった。妹のサヨ子が高校を終わって東京の葛飾区で町工場の事務員をしていたので、今度は妹に助けられることとなった。

「茂夫あんちゃん、子どもたちは私が出来るだけ世話をするからな」

 サヨ子は自分が茂夫の援助で高校へ通えたことを忘れなかった。

 

昭和五十六年のお盆に鏡石に子どもを連れて帰った。茂夫は叔父さんから一枚の写真を見せられた。お見合いの写真だった。

「茂夫、子どもを育てるのも大変だべ。サヨ子もそろそろ嫁に行く時期もきたし、世話をしても良いという人がいるので会ってみたらどうだ」

茨城県の大子の農家生れ娘さんという。背丈も茂夫と同じくらいの丈夫そうな娘さんだった。茂夫はすぐうなずいた。娘さんは東京の工場で働いているというので東京で会うことにした。

夏の終わり、上野公園の西郷さんの銅像の前で会ったが、汗が止まらなかった。精養軒でトンカツを食べた。茂夫の手は少し震えていた。

「杉田美代子さんは今、どこに住んでいるんですか」

「私は江戸川区の新小岩に住んでいます・・・・。」

もともと口下手の茂夫の精一杯の一言だった。下町ということなので何故かホットした。

美代子は茨城の中学校を終わると地主の農作業を手伝っていた。働く事は大変ではなかったが、毎日毎日地主の奥さんに小言を言われるのがいやでいやでたまらなかった。

十八歳になった時に大田区の電気組立工のチラシを手にした。母親は家に置きたかったようだが、近所の娘三人で東京に出た。トランジスターラジオの組立工場は二交代制で、工場は夜間高校も併設してあり勉強ができることも良かった。寮生活も年頃の娘たちがいっぱいで楽しかったが、なんといっても自分の小遣いが嬉しかった。

茂夫はすぐに結婚を申し込んだ。美代子も適齢期が目の前であり、大子町に戻されるより良いと決断した。二人の連れ子とはなんとかなると思った。そして、家をもってタバコも吸わないし酒もあまり飲まないということも大きく背中を押してくれた。

 

美代子は結婚してから茂夫について建築現場に行ったのは、茂夫は一人親方になり現場の仕事を任されるようになっていた。茂夫は家ではあまり話さない人だったが、現場では怒鳴られた。それは作業を早くすることでもあったが安全のためだという事を知ったのはしばらくしてからだった。

 

結婚して三年あまりで二人の息子たちは家を出て働きはじめ、二人の生活が始まった。美代子にとっては結婚生活のスタートみたいなものだった。福島と茨城生まれで国鉄の水郡線でつながっていることもあり、訛りも似ていたので気持ちが通じ合うことが速かったし、美代子が一番よかったのは食べるものが似ていて料理に苦労しなかった。