連載小説「いしのわた」5話

 

白い埃

 

 

 

内装大工に慣れてきた昭和三十九年になると、東京オリンピックがあり建物ラッシュで一年間に一カ月に一日しか休めなかった。代々木の体育館はこれまで見たこともない近代的な建物なので、苦労した。十月十日、東京オリンピックが始まり、飯場の夕飯時に買ったばかりのテレビに茂夫が入った建物が映っていた。自分が大きく感じた。

 

オリンピックを見ることはなく仕事に追われていたが一つだけ楽しみが有った。茂夫と同じ福島県出身の円谷幸吉選手がマラソンに出ることだった。この時ばかりはテレビを見せてもらい、暗くなった国立競技場で円谷選手がメダルを首にかけてもらったとき茂夫も嬉しかった。茂夫はますますやる気が出てきた。

 

現場の仕事は手仕事から電動に代わり始めた。丸ノコなどの電動工具が出てきて鋸などは使わなくなった。工事は、はかどった。しかし、カンナ屑は無くなり埃だらけの現場になった。

 

「山本さんこの埃は手ぬぐいやタオルを被っても咳がでますね」

 

「茂夫、明日からマスクをいっぱい買ってきてくれないか」

 

仕事の帰り道に茂夫は薬局で綿マスクを一ダース買った。

 

現場でボードを切った埃は窓からさす陽にキラキラ光って舞っていた。十時休み、昼飯、三時休みには綿マスク以外の真っ白になった顔を洗うことが当たり前になった。

 

ボードの間に断熱材を入れることが当たり前の時代になっていた。冬の現場は暖房は無く寒かった。

 

「茂夫、寒いからこの断熱材に座ると温かいからお前も吸われ」

 

「山本さん、温かいのは良いけど後から身体中がチクチクして痛いのがいやでするね」

 

現場監督も職長もボードや断熱材から出るキラキラする埃が何で有るかを知らないで毎日、毎日白い埃まみれで働いた。

 

現場が忙しいということは人数が必要となった。山本さんの兄弟子の花岡さんが石原工業という会社を興すというので山本さんと移った。  

 

 昭和が終わろうとするころには建築業界にもバブルが沸き起こっていた。茂夫の耳にも「あのビル建築工事部長は一次下請けから高級車一台もらった」

 

「幹部たちは銀座で一晩百万円を使って下請けに領収書が回っている」

 

昼の弁当を食べるときの話題だった。

 

バブルを反映して現場は芝大門ビルや鴨川グランドホテル、習志野カントリー倶楽部のゲストハウス、六本木のビルの内装工事もおこなった。戦後のベビーブームで学校が足りなくなり小学校から大学までの教育関係の工事が多かった。都立大泉高校、多摩小学校などの現場も手掛けた。

 

内装大工は腕をあげるためにはいろんな工事を覚えなければならない。特に大きなビルトかマンションなどの野丁場の仕事は専門的になるので一つのところでは一つしか覚えられないので事業所を変えることで多様な知識と経験を積む。